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鮎の道・古座川2

森平さと


目次

・・・はじめに・・・

1.木イチゴ摘み

2.笹ユリと螢と

3.三尾川紀行

3.1. 序章

3.2. 区役と蓮の花と

3.3. くるみの小径

3.4. 長追の美女湯温泉

3.5. 佐本川の鮎師

3.6. 八幡さんの木霊

3.7. 三尾川の黒犬

3.8. 三尾川の白犬と黒犬

4.一枚岩と屋台

5.重畳山の滝姫神さん

三尾川の高火・・・さとやんの研究論文発表

添野川慕情

一枚岩の歌姫の名演出


・・・はじめに・・・

『鮎の道・古座川』を昨年7月に刊行しましたが、新たに、その日から古座川紀行がはじまったのです。

1.木イチゴ摘み

木イチゴ摘み(池野山の里)

古座川の方言研究家Mさんが「両手いっぱいに木イチゴを摘んで、木イチゴがこぼれないように、空を仰いで、口いっぱいに、ほうばったら、口がもげるぐらい美味しかった」と、言うのです。Mさんは、方言を駆使したユニークなキャラですが、嘘はいわない人だから、200キロほど離れているけれど原付松号ともども引き寄せられるように、雨の中を走ったのです。

五月に入ってあまり雨がなくて、鮎の道も、小川では細ったようで、ハゼのあわれな姿が地元の新聞で取り上げられたほどです。それが、どしゃぶりの雨になったのです。大塔山を前にして、「この雨は、田植えにも、鮎にも、恵みの雨だ」とでも思って走っていたら、こけることもなかったのですけれど、木イチゴ摘みで出かけているものだから、「迷惑な雨」と思って走っているものだから、案の定、枯れ葉一枚に潜んでいた石ころに、こかされてしまったのです。

それは、木守の里です。しばらく、そのまま動けなかった。松号も止まっています。体の動けそうなところから動かしてようやく立ち上がりました。小一時間かかったように思いました。カッパは破れていたのですが、中が厚めのジーパンなので、身は、見えないので助かりました。血を見るのは嫌いなのです。右肩を打ったのですが、なんとか動かせれたので、松号を起こしました。松号のエンジンがかかれば何とかなるので、祈る思いでかけると、「さあ!乗れ」と言うのか、元気に動いてくれたのです。今まででもそうなのですが、こけても、こけても、事故っても、一度も、エンジンがとまってしまうことはないのです。足は、乗せておくだけでいいので、乗れさえすれば、なんとかなるのです。大塔山を20キロにて越えて、道を流れる水にも、その水の流れにて走る枯れ葉にも負けながら柚子の平井の里に降りたのでした。

平井の橋にて、川を眺めているおじさんに、「この雨で、田植えができますね。鮎にもいい雨ですね」と、声をかけたのですが、吐き捨てるように、「(これぐらいの雨では)なんともならん」と、言うのです。私は、走るしかなくて、あいさつもせずに走ったのでした。途中、藏土で、Nさん宅にて小休止させてもらいました。Nさんは、仕事が好きらしくて、休日にもかかわらず家にはいてませんでした。おかみさんが、「よかったら着替えて・・」と言って応急を施してくれたのですが、Nさんのものを着用するのにはいささか抵抗する元気はまだ残っていたようです。それに、体の隅々にまで、大塔山の水が入り込んでいて、しかも、血塗られているとしたら、「お願いします」ともいえないので、一服させてもらって、また、湯川の庵まで走ったのでした。このような光景は、以前に一度ありました。それは、小森川で遭難して小森川の人に救助されて、帰る光景でした。

ようやく、こけてから、3時間ばかりして、庵についたのでした。小森川の時と同様に、庵に着くなり、そのまま、風呂に入り、風呂の中で、服をぬいだのでした。そして、洗濯機を回したのです。お風呂から出て、近所の親しくしてもらっている観光ホテルさくらに出かけました。フロントに、愛称ちかちゃんがいて、「また、こけたんかいな」と、消毒と湿布を施してくれたのです。「近頃、来るたびにこけてないか」と言うのです。そういえばそうなのです。事故ったり、こけたり、何時も、応急措置をしてもらっているのです。後は、帰って寝るだけの処置です。

翌朝、雨は上がっているものの木イチゴ摘みは、はなからあきらめていて、洗濯機を回して、靴を乾かすために玄関の外に立てかけ、洗濯物を干したのです。歳をとっていると痛みが訪れるのも遅いとかで、まだ、なんともないのでした。それでも、横になっていたのです。そこへ、MさんとNさんがまたまた休日返上みたいなもので、様子を伺いにきてくれたのです。そして、「木イチゴ摘みに行こう」と誘ってくれたのです。「靴を乾かしているのでセッタしかないので、セッタでいけますか」と、尋ねると、「行ける」というので、お言葉に甘えて連れて行ってもらうことにしたのです。なんとも厄介な私は訪問者です。その上、昼前だったので、「古座川」のうなぎを食べさせてもらいました。Nさんは、所要ということで、Mさん夫妻に、案内していただいたのでした。軽トラにて「むじやしき林道」に向かいました。私は、助手席に座らせてもらいました。失礼ながら、悦ちゃんなる犬とともに、荷台に奥さんを乗せて出発とあいなりました。途中、悦ちゃんは、好きな匂いをかぎに山に放してもらい、車の前後になって走っています。林道は地道で、タイヤには刃物のような石ころがそこここにありました。私が歩けないと察したMさんの無茶を承知の進撃でした。お社があり、黒潮の海が見える見晴らしのよいところで小休止です。林道の終点まで、木イチゴ摘みのために、走ってくれたのでした。そればかりか、木イチゴの枝には、棘があるので、剪定ハサミで枝ごと取ってくれたのでした。摘んでもらって、手の平にいっぱいにしてもらって、ほうばらせていただいたのでした。たぶん、我が子にもこんなことはしてないでしょう。そう思いながら、ご夫妻に甘えさせていただいたのでした。仲の良いご夫妻が傍にいなかったら、大声出して、泣きながら、空を仰いで口一杯にほうばったことでしょう。木イチゴの旬か、優しく甘かったです。まるで、ご夫妻の仲の良さの味でしょうか家でくつろがせてもらって、今度はマイカーにて庵までご夫妻に送ってもらいました。道中、最近できた古座川のCDがかかったのはいうまでもありません。

Mさんは、幼い頃、母に、手の平にいっぱい木イチゴを乗せてもらった思い出を語ってくれました。戦後まもなくのことで、誰もがやせ(地)の状態でした。今のような飽食の時代ではありませんでした。将来、ふる里を離れるであろう我が子に、わがふる里の味を生活の暦の中で伝えたのでしょう。空を仰いで、口一杯もぐもぐさせて、こぼすまいとほうばる源風景に幸あらいでかいな。言葉だけが伝承されているのではなくて、行いを伴う里山学であり、熊野学であり、映像文化なのです。

2.笹ユリと螢と

スーパー黒潮にて、古座駅着、6時20分。笹ゆりは、無理だと思っていたのだけれど、お世話になる方言研究家のM氏は、日が長くなっているので十分見れるというのです。着いて、「都会の6時20分とは随分と違うような」と感じるのでした。風景がちがうからなのでしょうか。M氏は、この日、公私共に気ぜわしい時の中にいたのです。町議選、日曜日の投票を明後日に控えているのです。にもかかわらず、案内いただけることになったのです。

今にも、「降りますよ」とでも言いたそうな空模様です。すべてを呑み込んでいるかのように、M氏は、笹ユリの群生を見て、そのまま、螢の乱舞を見るということになったのです。こんな贅沢な時をいただける嬉しさというよりも、畏怖の念に届く出来事に感じてしまいました。M氏の愛車にて20分足らずで笹ユリの群生地に着いたのでした。そこは、一雨と書いていちぶりの里でした。旧371号の道の入口には、一雨のおばあちゃん宅があるのです。一雨のおばあちゃんの好きだった「文の小径」なのでした。

最盛期は過ぎているもの数百本の群生を文の小径にて観賞できるとは思いもかけぬことでした。人恋しく咲く笹ユリ、そこには、笹ユリと共生しているおじいちゃんがいたのです。山際のけいはんは、田の陰になってはいけないので植林しないところなのです。そのけいはんの雑草は、田を作る者が雑草を刈れたのです。それが刈り敷きといって、田の肥料となり、土になったのです。そのけいはんに、見事に咲いているのです。六月までの草刈りの時は、笹ユリを残して刈ります。きかいによる刈り飛ばしはできません。手でていねいに刈るしかないのです。そして、花が咲き終わり、種ができて枯れてしまいます。夏草刈りをして、秋には、田に敷くために、収集して、おこでいのて、山道里道畦道を通るので道沿いに種が落ち、雑草の根に守られて七年、八年経つと一枝一花が咲くのです。そして、二枝、三枝となります。

三枝(さえぐさ)神社がありますが笹ユリを神として祭るのです。歩く姿は、ゆりの花とか。万葉の時代から人恋し花なのです。おじいちゃんにとって、笹ユリは 共生する恋しい神さんなのです。その光景に、カメラをパチパチ。道ばたに、石碑があり、右かわたけ、左、峯と刻んでいました。峯の薬師堂への道しるべだっのでしょう。M氏は、笹ユリを追いかけてはパチパチとる姿を見て、「踊っとる、踊っとる」と、言うのです。「そうか」、私は、笹ユリに踊らされているのでした。さすが方言研究家です。うまいことをいうものです。笹ユリは、神さんなれば、踊らされて当然かもしれません。

そこへ、なんと、なんと、憧れのO女史が登場したのです。O女史もまた、文の小径に沿って住んでいるのです。昨年は、古座川町のイメージソングの審査委員をつとめられた方で、最近、O女史が手がけられたCD「古座川歌しるべ」が発売されています。「このまちが好き」と共に、私のお気に入りの「あがら一緒に」が収められています。また、紀伊半島の詣で文化の貴重な里の盆踊り歌などが収録されています。M氏とO女史と旧371号の道に座り込んで笹ユリの舞台で踊るように、笹ユリが見えなくなるまで話し込んだのでした。一枚岩の下で新演歌「あがら一緒に」をみんなで踊るとか、それを最近噂の一枚岩の屋台にて見てみたいと思うのでした。

夏の屋台での再会を誓い、螢の小径に向かいました。カモシカ岩の真下を通り、立合の里中を通り峯の薬師堂の入り口になる峯口橋を訪ねました。橋の中ほどに車を止めて、チカチカと点滅させました。車螢の出現に、両サイドの竹藪の中から一斉にともし始めたのです。そのうち、天から火の子が降るように降りてくるし、橋の下から火の子がわき上がってくるのです。勇猛果敢に車螢をめがけて来るのは、雄の螢かも。竹藪でじっと見つめているのは、雌の螢かも。M氏には、「へけたれ」と言われそうだったので、「木霊か」と。季節、季節の旬の花が咲いた里道を巡るだけでも癒されるし、甦ります。これぞ、熊野道なのです。司馬遼太郎さんの好きだった道でもあります。古座川学即ち熊野学なのです。

こんな幸せな紀行は初めてでした。結果的にM氏の企画演出による紀行になりました。楽チンでした。コケることもないのですからね。僅か3時間足らずでしたが、笹ユリと螢と出逢いをいただいたのです。その想いを抱いて庵にて書きたかったのでした。土日は、案の定、熊野の雨雨降る降るでした。たしかに、M氏が言うように笹ユリに踊りました。そして、笹ユリに囲まれて座りました。お釈迦さんみたいでしたね。笹ユリに見取られながら、M氏とO女史との語らいを聞けたのですから、私は、本望というしかありません。

3.三尾川紀行

3.1. 序章

『鮎の道・古座川』で三尾川の里での詩は、洞尾の嶽さん、藏土の鉱山は、古座川沿いであり、光泉寺のイチョウ、それも、隣の空家の石垣の草を刈っているおばちゃんをとりあげたのと、南平の里で一人暮らしのおばちゃんの家じまいに涙ぽろぽろした話の二本しか書いていないのです。訪れたわりには書けなかったというべきでしょうか。何処にいけばよいのかが自然体の私には見えてこなかったということでしょうか。私の私自身の宿題の一つは、明かしてくれない三尾川だったのです。私は、古座川が河口まで人と共存しながら清流である川といわれる所以は、支流小川と三尾川が清流を古座川に運び込んでいるからだと思っています。それだけに、三尾川への想いがあったのですけれど、私には通じないもののようでした。私には、それが多少不満ではあったのですが、古座川の里巡りで宝さがしをしているのでもなく、あがの名誉のために巡っているのでもないので強いて書き表すこともなかったのでした。しかしながら、何時も立ち寄る不思議さは感じていました。これは、なんなのだろう。何れ時が来て、ご縁があれば、解き明かして下さるだろうと思っていたのです。方言研究家Mさんやしょうこ姫、大阪から毎年通われている佐本川の鮎師さんや古座川ホームページのミサコさんの書き込みに触れて、漸くにして、三尾川紀行に赴くことになったのです。また、最近発売されている古座川町のCDに収録されている三尾川の八幡さんの祭り歌、その笛と太鼓の音に踊ってみたくなったというべきかもしれません。

3.2. 区役と蓮の花と

和歌山駅には、紀南に台風接近と慌ただしく文字が踊っていた。もとより、三尾川紀行に行けると踊ってしまっている私にはさしたる驚きではなかった。とにかく、スーパー黒潮に飛び乗りました。すさみ辺りの高潮と雨を見て、今日は、カッパもないし中止を決めて、古座川を拝して湯川に着いたのでした。翌朝、晴天となり、各駅停車にて古座駅に着いて、紀行で初めて古座川タクシーに飛び乗りました。一刻も早くという想いです。方言研究家は、有名人らしくて「スイスイ」と家まで運んでくれた。勿論、「今年の鮎」談義でした。Mさんの原付悦号(愛犬にちなんで)を拝借したのです。木イチゴ摘み以来の原付によるたっぷり一日里巡りなのです。ぼたん荘のある月野瀬あたりまでくると俗(毒と表するのが正解かもしれない)ぽさがまったく抜かれていました。一雨では、総出約30人の区役にて、もとの鶴川への吊り橋の周辺やその河原、カモシカ岩の周辺の雑草を刈ってくれていました。都会から移り住んだ方も混じっておられました。田舎ぐらしは、「人ぎらいではつとまらない」とMさんはよくいいます。「たまの休みやのに」は、里では身勝手なのです。そして、区役して清掃しても一夏で汚されてしまいます。そして、その後始末も区役(苦?役かも)になるのです。訪れる人は有意義に過さねば罰があたりますよね。ゴミも車で積んで帰る人も多くなりましたが、それは、きれいな川だからです。その証拠に、今新しく出来た道の駅でポイポイ捨てています。そこまではね持ち帰ってる心理なんです。大型バスが最近トイレに困っていると聞きました。休憩できるところが少なくなっているのです。採算にあわないからです。トイレとゴミだけだからやめてしまったのです。

やがて、工事中のため、立合から螢の峯口橋を渡り、相瀬へのつり橋をこわごわ渡り相瀬の里へ出ました。洞さんの自慢の大賀ハスが旬を迎えていました。あいにくと留守でした。笹ユリと共生するおじさんが居てるように、蓮と共生するおじさんが居てるのです。人と共生する区役といい、花と共生する洞さんといい、共生が里ぐらしの基本のようです。やがて、一枚岩を拝して、三尾川橋に着いたのでした。

3.3. くるみの小径

何時もなら三尾川橋を渡るのですが、ためらいもなく、そのまま端子・大川を松の前に向かって広々とした道を走りました。どこかで里道に入ろうと思いました。まだ、訪れたことがなかったのです。右手に里道があり、わからないままに、谷川に沿って走りました。きれいな清流です。奧の松尾さんに聞くと、大川、くるみ谷とか。「鮎は登ってくるのですか」と、尋ねると、一ヶ所鮎が登れないところがあるので「鮎はないよ」とのことでした。昔は、うなぎも獲れたとか。聞けば、最近まで、アマゴの養殖をしていたというのです。養殖はできても売りさばくことが大変なのでやめたそうです。その養殖場をえび漁の人に貸しているというのです。早速、訪ねることにしました。ちょうど沼エビを選別していました。種類と大きさに振り分けていたのです。谷でえびかきをして集めているとか。ぬまエビの用途は淡水魚を飼う水槽の掃除屋さんとかで珍重されているというのです。私は、加太にて鯛の一本釣りの餌によいと聞いたことがあります。私のおばあちゃんは、よくえびのかきあげをしてくれました。自家製のかやの油で。それが源風景にあるものですから懐かしくえびさんを拝見しました。卵を持ったエビや小さいのは逃がすとか。えびかきが専業ではなく、土日の楽しみのようです。ショップを経営していると「常連さんにないとはいえないんですよ」と。古座川の谷間のえびで付加価値をつけて商いをしているのです。販路に導けたら古座川ではいろんな商いがあると思います。いずれ若者達がインターネットなどの伝達方法によって、その英知を持って里帰りするだろうと想います。その日はそんなに遠くないと思います。バブルははじけたのですからね。楽しみです。その日まで、じいさん、ばあさんがその技をその風土を守っていただきたいものです。そのようなルンルンにて、母に抱かれた心地にてくるみ谷を彷徨い巡りました。母のような風、くるみの小径でした。

松の前ののぼり口では、今はなき椎の大木跡とふかん谷の源泉を訪ねました。「切り傷に効いた」と松の前の畑でいたおばちゃんに聞きました。おばちゃんは、佐田から嫁に来たとか。それでも、よそから来たから「わからん」というのです。母は、わが子を都会に送り出せたのは、嫁として姑に仕えた暮らしに裏打ちされていた気がします。「せめて子には」という想いでしようか。案外、気丈に子供を都会に送り出したように思います。そして、今は、その子供達の家を巡るのが楽しみと言うのです。神戸とか大阪とかと・・・。やがて、長追の里へと橋を渡ったのでした。くるみの小径でおばあちゃんに出逢った気がしました。木霊だったのでしようか。

3.4. 長追の美女湯温泉

古座川と佐本川の合流地点に長追の里があります。長追の里に、一度は入りたいと思っている美女湯(みめゆ)温泉があります。34.5度の温泉です。低料金にて、火木土日に入浴できます。午後2時からです。そのようなことで、なかなか入湯の機会に恵まれていないのです。今は、鮎シーズンにて、冷えた体を温めるために、竿納めをして、帰り際に立ち寄る鮎師が多いそうです。(入湯したら続きを書きます。未完)

3.5. 佐本川の鮎師

長追の里から左手、佐本川に向かいました。つり橋がありやがて立派な下地橋にでます。車ならそこまでです。そこから2キロほどで佐本の里に出るそうです。渓谷にはちがいないのですが人を寄せ付けないような感じではありませんでした。天晴れのせいでしようか。

道沿いには、今でも、家屋敷の跡であることが一目瞭然でした。植林されていても、石垣が崩れていないのです。三尾川の石垣の堅固なこと、芸術です。技です。石垣積み師がいたのでしよう。Mさんによれば、川原の石にいくらと値段が書いてあってそれを運んだらそれだけお金をくれたと聞きました。ダムの冬は、干すので湖底に、田畑が現れます。その石垣に見とれてしまいます。崩れないのです。頼もしい技です。古座川をゆえあって去った人も訪れる人も冬に一度是非見てほしい。涙ぽろぽろでも拍手むしてしまいます。

佐本川は、上流で工事するたびに土砂が流れ岩が埋もれてしまうと橋の袂で佐本川の鮎師に聞きました。しかし、十年もすれば、元通りの岩が現れるともいうのです。梅雨に雨がなかった年は、川岸の木の葉が落ちたと言います。その年から山桃の実がならなくなったというのです。さすが、鮎師、佐本の川景観にこだわりがあるようです。聞けば吉野の出とか。渓流釣りの里のご出身。佐本にこだわる訳を尋ねました。上流に佐本の里があり、生活水もながれてきますし、竿も木にかけてしまうと言うのです。しかし、ここの鮎は、天然の鮎ですと。海から遡上してきた鮎ですと。それに、竿が隣とガチンしなくてすむと。養殖の鮎とか湖産の鮎とかは、川に入れた地点からそんなに遠くまで登りませんと。長年の鮎観察記を聞かせてもらいました。大阪の金曜日の夜から他の誘惑にめげずに佐本の木霊に魅せられて走ってきて土日を鮎と過ごしているのです。何杯もコーヒーをいただきながら聞かせてもらいました。鮎の美味しい食べ方は、「たて喰う虫も好きずき」の川などにはえているたてという草をすって酢とあわせ、それで食べる美味しいというのです。たては口にすると苦かったです。でも好きな虫がいてるようで葉は虫くっていました。何時までも佐本川で鮎釣りをしていてほしいと思いました。たての苦い味のまま長追の里に戻ったのでした。

3.6. 八幡さんの木霊

半日を三尾川の八幡宮にいました。振り返れば、木霊が見えるということを訪れた数人から聞いています。その上に、Mさんにも聞かされているので是非振り返らねばと思って過ごしました。力石を両手でなでたり、杉の大木や、むくの木、椎の木など撫でてまわりました。人が見たらおかしいにちがいありません。木に踊っていたのです。おじさんがやって来てくれなんだら当分撫でていたのではないかと思います。途中で小便のために民家の近くの田圃にでかけたぐらいです。おじさんのおかげで八幡さんを離れたのでした。木霊に踊っていたのでしよう。

・・・近々、もう一度尋ねることにしていますのでここまでとさせていただきました。

3.7. 三尾川の黒犬

古座川町のホームページの「ミサコさん」の書き込みにて、竹藪はこれか、学校の鉄棒はこれか、などと推理もどきを楽しみながら八幡宮に向かった。八幡宮にある丸石は、力石。私は、もともとは、神玉と思っている。持ち上げる力はないのでさすることにしている。連れの方言研究家はまだ咳き込んでいるようだが私はさすったので大事にはいたらなかったようだ。元気をいただける神玉なのだある。室さんのししやまの猟犬、「龍」という黒犬に会いにでかけた。聞けば猟はすごいとか。一人で猟をするのがむいているとか。殺してしまわずに、家の近くの谷川にまで、弱らせながら連れてくると感心して話してくれた。私は、空海を案内したと物語る白犬と黒犬に注目している。白犬は、改良されて紀州犬として名高いのだが、黒犬はそのようなことを聞いたことはない。黒色ゆえに嫌われたのだろうか。いずれにしても、その起源は、縄文犬に通じていると思う。ししやまは、犬がいのちなので飼育され研究も重ねられてきたはずである。縄文犬、空海を案内した犬は、ししやまの猟犬として継承されているにちがいない。初対面の私に、しっぽをふりながら寄ってきてさわらせてくれた。鳴き声もださない。ししやまの時しか出さないのではないか。鳴き放しではまさかの役にはたたないことを知っているのではないか。あいさつが済むと一番の日陰に戻ってねころんでしまった。室さんは、生後間もない黒犬を見せてくれた。ししやまの大事な連れを抱きながら龍のよな猟犬へ期待するのであった。

3.8. 三尾川の白犬と黒犬

弘法伝説が古座川にあるのかどうか興味があるのです。その弘法伝説を母様から聞かれたのは三尾川でいいのでしょうね。勿論、伝説そのものについての場所はありません。峯の薬師堂のお山には水呑大師があります。重畳山に納骨堂があり、宗派にかかわらず骨上げがなされていたのではないかと思います。那智勝浦の色川の阿弥陀寺がそうです

★弘法大師を案内した白犬と黒犬。
狩場明神の連れていた犬に案内されて高野山を開いたということです。その伝説から、紀伊半島は、狩猟の民(山の民)の世界であつたことが窺えます。狩猟犬だったということになります。「ししやま」による人と犬の共生、人には犬を科学する必要があります。私の里では、骨のぼりの折りには、犬の弁当を持参します。犬の専門家ではないのでわかりませんけれど1年と3ヶ月で子を産みますからししやまを40年するとして7代ぐらいの犬を見ることになります。犬の遺伝学を修得することになります。交配ですね。弘法大師を案内した狩猟犬は縄文犬にたどり着くのではないかと思っています。白犬は現在紀州犬として改良されてきたのですけれど、黒犬はおきざりにされてきたといえます。私はその意味で黒犬に興味があります。白黒をつけるとかいいますが狩猟の民の犬との共生の世界にあったのではないかと思うのです。たとえば道を選ぶときに白犬の道を選んだとか。いずれにしても高野山を開かれる以前に、狩猟の民と犬の共生の世界があったということ、それが、弘法大師の信仰によって里にて物語られるのであること。更には、弘法大師によって狩猟の民が仏教を受容したことがうかがいしれるのです。里は、僧次第で宗派は変わりました。時には、僧のいない無住であった期間もあるのです。里のお寺さんは、宗派にかかわらず里の暦に合わせて大切にしておられます。墓地にはいろんな墓石があるのです。

4.一枚岩と屋台

東の国から西の国へと向かう途中で古座川をねぐらにした歌姫がいる。その姫が一枚岩の前でさくらの季節と夏は屋台を出すようになったという。一枚岩の舞台で姫は屋台という演出を試みたのである。一枚岩と人の間の想いを演出してみたかったのであろう。故司馬遼太郎さんが熊野の世界を古座川に見いだした。その一つに一枚岩があり、その一つに瀬音がある。私は、更に、371号の道の上を見上げたい。三尾川の校歌にも歌われている修験の嶽さんがある。熊野詣の辺路行のお山があるのだ。一枚岩と嶽さんに挟まれた古座川、その熊野の風土、その音を風を聞きながら、大地の耕作者がわかる野菜の品々を味わいながら飲む生ビールは最高だろう。姫は、開店の合図に生ビールを流し込む時がたまらないという。根からの演出家なのだろう。木でいえば見えない根。大塔山を越えてきて通りかかると五時前であったが開店していた。7/28、初めて立ち寄った。客の気にあわせて日々屋台の有り様が違うようだ。想いが工夫に連なっていて、本業の業をもしのばせている。それゆえに、一度が二度、三度の客になるようだ。帰りのはずの7/31には、茶粥のお披露目の日だった。姫茶粥の風味を味わえた。姫は「根」がすきなのだろう。小雨ぐらいは平気。地の人、たまたま仕事に来ている人、古座川の愛好家の旅人達が思い思いの木の株に座る。さて、熊野の根の音に巡り逢えるか楽しみである。熊野・根(音)国の世界の注目の歌姫だと想った。・・・根は/ね/しゃれこうべだって/ね/生かして/ね/花を咲かせるんだ/凄い/ね/季節を追いながら/命ある花を/想いを捧げて/咲かせるんだ/踊ろうよ/ね・・・「踊ろうよね」

5.重畳山の滝姫神さん

三尾川の黒犬に会いに出かけた日の早朝、初めて、重畳山に原付松号と登った。以前から心に決めていたわけではない。私は、私流の縁ができたのであろうと思って向かった。姫川の地名は、滝姫神を祭る重畳山(301b)に由来するという。古座(神座)、古田(神田)、神野川なども滝姫神に由来するという。その昔、西向・神野川・伊串・古田・古座の旧5ヶ村によって祭られてきたという。古座漁民の海上安全と豊漁の祈願所である。四国八十八ヶ所巡りの石仏が配置されていた。そして、真言のお寺と納骨堂があった。その上に、滝姫神を祭祀する社があった。神仏習合の山なのであろう。また、修行者の辺路行の山でもあったのだろう。木々がこんもりとしていなければ、岩場の頂きであろうか。見晴らしはよい。黒潮の海まで見渡す限りこんもりとした森が幾重にも畳を敷き詰められていて、重なりあっているように見える。その森の中に滝姫はいてるのだろう。那智の滝、飛滝神の影響とする考えもあるようだが滝姫とする素朴さに私はひかれる。そして、今も尚、姫、姫川など滝姫神の信仰に裏付けされる里名や地名が麓にあることにひかれる。重畳山を水源とする谷川が八方に流れて里のいのちと暮らしを支えているのだろう。帰りは、古座川町の高瀬に抜ける林道を走って降りた。ちょろちょろ水もやがて谷川らしくなり、高瀬の里に着いた。丹生津姫・熊野の女神を訪ねて、紀伊半島を巡る私は「姫神」にひかれるのだった。

三尾川の高火・・・さとやんの研究論文発表

8/13といえばたいていの家ではお盆になる。夜には迎え火を焚く。三尾川の高火が室さんに復活してもらった。竹を切ってきて、三枝残して、その先に松明をくくりつける。それに火をつけて庭に立てるのです。その日の室さん宅は、にぎやかに大家族です。みんなで天を仰いで見守る高火。まず「三枝」。三枝は落語家にいてるけれど、さえぐさというて、山(笹)ユリのことや。もうちょっというと女神さんやな。「あるく姿はゆりの花て」いうがな。一枝一花にて三枝なれば十年になる。笹ユリは三枝神社として、神さんとして祭られています。その笹ゆりを里のおじいさん、おばあさんが草刈りで残すのは、祖先神(霊)に、神仏に供えるわけや。無惨なことはしてはいかんな。祖先神(霊)の迎え方はいろいろあるよ。私の里では、鳥居のようなものを庭に造る。多分、祖先神(霊)が、通る、くぐるの意味があるのやろな。あの世とこの世の門かいな。庭のことを門というやろ。私の里の山一つ離れた里では、笹を切ってきて、三枝それぞれ一節にして立てます。七夕は笹や。星祭りも天やな。これは、祖先神(霊)が天から降りてくることを意味するのやろな。天から降りて来る竹は「よりしろ」。月夜姫物語ができるはずよね。三枝はひらたくいえば階段やね。鏡,剣、玉をその枝にかけるような祭りもあるよ。神玉祭りや。「たかい、たかい」て育ててもろたならわかる。高火や。祖先神(霊)と人との出会いやな。なんで夜なんか。それは、天の岩戸と同じや。地の世界が昼なら天の世界は夜やねん。昼に出たら夜や。送り火は、川にて送り火焚いて舟に乗せるんや。祖先神(霊)もまた、森の生物と同じや。16日の明け方に送るのは一日でも長くや。明け方というのは、昼の内に着いてほしいからやな。地踊りで迎えるわけですよ。はりゃりゃ、はりゃりゃてね。仮装(面)したりしてね。お盆に仏の世界では、無縁さんまで祭りますね。これは、七代以前の親を無縁というのです。七世父母といいます。それは、しし犬もみんな祭っていたんですよ。神仏受容以前の祖先神(霊)が基盤にあるのですね。室さんの家の墓にはしし犬の墓石がありました。口で共生は言えますよね。でも墓石にできますかね。そこには、共生の人と犬の生死をかけた物語があるからですよね。共生てよりすがるだけではないですよね。室さん宅の高火にて。

添野川慕情

ある日、一枚岩の屋台でほろ酔いのおじさんに、「森平か、添野川は来たことないんか」と、肴にされました。か弱い声で?「通ったことはある」と答えると、一段と声をあらげて「いくさ地蔵知らんのか。戦場に行くとき皆参ってから行った・・」と。酔えば、戦争の悲惨さが甦るのだろう。出兵を見送った里の地蔵さんに行かねばならないと思った。8月24日周参見に向かう気もないが向かった。湖底には、今年は雨が細く、渇水にて、一段と鮮やかに、ありし日の里風景が現れていました。何時も通るたびに立ち止まります。今も尚、崩れていないのです。石垣の頑固さが好きです。たまりません。三尾川の里道もそうだが家々の石垣を眺めて歩くと生きるパワーをいただけます。背筋がシャンとします。石垣の中ほどには、草刈りのための踏み石が組み込まれています。石と共生しています。石でできた猪垣もあるとか。石の文化財です。一度、その素晴らしい技とその頑固さに触れて見て下さい。旧住人は、この里風景をどのような思いでながめるであろうか。その辺りになるとじんじんする。しかし、さとは、しっかり見ないといけないと思う。石の文化財として残しほしい。生きた教本ではないだろうかと。えらそうなことを思ったりする。にぎりがあればにぎりを食べ、みかんがあれば、みかんを食べながら見る。神経をどこかにくくりつけておきたい衝動によるのだろう。添野川に沿って想像していた以上に家が建ち並んでいました。里道に入らないとわかりませんね。日置・大塔にも通じているのです。田辺への道だそうです。教えてもらいながら、いくさ地蔵さんに向かいました。道から谷に降りて、小橋を渡りしばらく川沿いに上がるといくさ地蔵さんがありました。ここから若者が戦場に送られたのか。汗を拭いて、手を洗って、撫でたり、抱きついたりする癖があってかないません。おじやん、おばやんの泣き笑いが聞こえてきそうです。すっかり、旅人気分が失せてしまって先に進む気もなくなっていました。ままある光景ですが。夢でも見ているように里道を「とろとろむと周参見への道に戻りました。やがて、周参見と上富田への別れ道でようやくどうするか思案したのでした。こりゃ、「添野慕情だ」と叫んだのでした。するとどこからか犬が現れて「なに言うてんねん、気つけてや」と前を横切ったのでした。 です。

一枚岩の歌姫の名演出

私の大好きな一雨の文の小径に居を構えて七年目の歌姫を訪ねました。一枚岩の桜の木の下で桜の季節と夏休み中、笹ゆりを育てている後口さんと屋台を出しています。371号で行き交うので開いていれば必ず立ち寄ります。開店は、生ビールを合図にし、閉店は、客が帰る時とか。それを知りながら、朝駆けしたのです。七時台でした。通りかかったんだからしかたないとばかりにピンポン。素顔に逢えてよかったです。居を構えたきっかけは、一雨出身のスタジオミュージシャンの縁という。ご主人は鮎仲間だったとか。準備として、それぞれ独立して、「フリーマーケット」を設立。歌姫は、音楽プロデューサ。古座川のCDもてがけられたとか。ご主人は、二人の居の設計図を作り、歌姫は、調理師になるために一年間学校に通われたそうです。ご主人は、仕事は、東京、こちらでは、釣り三昧が夢だったようです。歌姫も、仕事は、東京、こちらでは調理師に夢を託したようです。一枚岩で屋台というのが納得できたのでした。家を拝見していても民宿は十分にできます。「働き済んで」転住してきたのではないのです。セカンドハウスではないのです。一雨での生活設計の基に居を構えられているのです。一雨での生業にこころを砕いているのです。「水道がない」とか、「人と付き合うのがいやだから」とかではないのです。都会で暮らせないから、田舎だ」ではないのです。一雨で暮らせることに真摯に取り組み生き甲斐を求められています。その信条にて、歌姫の屋台を手伝うゴ主人は、「私は、アッシー君」と笑うのです。生業の上に夢は成り立つ。さすが音楽プロデューサです。屋台の前で、自ら手がけた「あがら一緒に」の手踊り、扇子踊り、しかと見届けさせていただきました。屋台にしても、演出は歌姫、設計施工は、ご主人とわかります。一雨からの新演歌の発信を期待したい。一枚岩に出る初めて見る月、せせらぎの音、屋台の灯り、客が持ち込む鮎あり、ししあり・・採算とれてるのやろかと。